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それ行け!小隊長! (戦闘訓練 IN 富士学校)

EPISODE5 戦闘訓練(IN 富士学校)


幹部候補生学校を卒業と同時に3等陸尉に任官した後、俺も含め同期の連中は各赴任先へばらばらに散って行ったわけだが、数ヵ月後BOC(Basic Officers Course 幹部初級課程)に入校するため(陸上自衛隊の場合は静岡県の御殿場にある)富士学校に集められた。ここではこのBOCでの体験を述べたいと思う。
 BOCでは文字通り幹部としての基本的な素養を身につけさせるために、訓練や座学(教室での授業)が行われる。ある日、当番持ち回りで俺が班長の日に戦闘訓練で演習場へ出かけたときだ。たしか昼からの訓練だったと思うが出発のときからどうも天候がくずれるような雲ゆきだった。予定どおり俺達は泥にまみれながら戦闘訓練や突撃訓練を行っていたのだが、案の定雨が降りだした。皆、当然カッパやポンチョを携帯しているので雨くらいでは別に驚かないのだが、この日は雷雲が発生していたらしく、遠くのほうで雷鳴が鳴り響いており、その音がどんどん近くなってきているのだ。落雷も遠くで見え始め雲からバリバリと地面まで到達しているのが見えた。教官はさすがに危険を感じ、皆が携行している銃を脚を立てて一箇所に集めさせ、さらに身につけている金属も極力はずして銃と一緒にかためて置いておくように指示し、銃を集めた場所からかなり離れたくぼ地に皆を避難させた。
(余談:富士学校の周辺には、富士の広大な裾野を利用して東富士演習場や北富士演習場といった、自衛隊の演習場所が各所に点在しており、入校中はこれらの演習場を走り回らされたものだ。裾野であるため、快晴の日にはかなり山すそまで見渡すことができ、その絶景を見ながらの訓練後のタバコはうまいの一言につきる・・・。また富士周辺でキャンプしたことがある人ならお分かりだと思うが、夜間訓練で歩哨にたつときなどはその星空の美しさにはついつい見入ってしまうくらいだ。普段あまり夜空を見上げることなどないが、夜間訓練中は照明もなにもなく新月の日などはほとんど手探り状態で前へ進まなければならないため、必然的に明かりのある星空へ目がいく。すると夜間飛行のジェット機の点滅する光や流星が目に飛び込んでくるのだ。富士にいた6ヶ月間で流星を数十個見たと思う。また、先のジェット機の光を見ながら、「俺はこんな富士の原野で何をしているんだろう」と感傷的にもなったのを思い出す。
余談の余談になるが、夜間歩哨時等の喫煙の仕方で覚えていることを書いておこう。火をつける時が一番光量を発するので特に注意が必要で、着火するときは完全に周囲に光がもれない場所(たこつぼ内等)でするしかない。さらに着火後もタバコの火を手で覆うようにして吸わないと光が漏れることになる。煙を吸うときには吸っていないときの数倍にも光量が増すため特に注意が必要だ。訓練中も教官が数百メートル離れたところでタバコを吸わせたことがあったが、暗闇に小さい赤い点がくっきり見えた。あれではたしかにこちらのいる位置を教えてしまうし、格好の標的となってしまうだろう。)
さて、話を雷に戻そう。くぼ地で身を低くして雷雲が過ぎ去るのを待っていた俺達だが、ようやく雷雲も遠のいたのでそそくさと学校への岐路についたのだった。帰隊後、早速雨で濡れた銃や機関銃を手入れにかかり、班長である俺は最終的に武器庫ですべての銃が格納されたかを確認していた。武器には全て台座が用意されており、自分の銃はもちろんだが機関銃等もすべて格納する台座に立てかけるため揃っていないと一目で分かるしくみになっている。個人の銃の確認を終えた後、機関銃の台座を点検するとまだ1丁が格納されていない。まだ手入れが終わっていないんだろうと思い、急がせるつもりで隊舎に行くと全員が銃は返納したと言う。少し青くなった俺は本日機関銃手に当たっていた5人に聞くとやはり一人が朝は持っていったが帰りはだれかが持って帰るだろうと勝手に思い込み自分の銃しかもって帰らなかったというのだ。通常戦闘訓練を行う場合には機関銃手の役も持ち回りで行うので、全員が自分の銃も携行した上でさらに割り当てられた数人が機関銃も携行するという具合だ。
俺は早速教官室に飛び込み事情を話すと、教官はすぐさま俺をジープに乗せ演習場へと急いだ。すると全員がかためて銃をおいた場所にぽつんと機関銃が1丁寂しそうに置いてあったのだ。俺も教官もホット胸をなでおろしたのだが、なんともお粗末な話しであった。雨で体もびしょぬれになり、みんな早く隊舎に帰ることしか考えていなかったため、誰一人として最終的に銃が残っていないかを確認していなかったのだ。
 無事に機関銃がみつかったから良かったものの、あの時もしみつからなかったらどうなっていただろうと思う。

それ行け!小隊長! (スキー訓練)

EPISODE4(スキー訓練)


2月のある週、連隊の新隊員を中心にスキー訓練を行うことになった。うちの中隊長を長として総勢100人近くの訓練隊だ。隊員を3トン半のトラックの荷台に詰め込み5台程の隊列を組んで俺達は訓練場へと向った。(トラックでの人員輸送だが、隊員を乗せる荷台はホロを被せただけなので、走ると後部の幌の隙間から自分のトラックの排気ガスが巻き込まれてきて隊員は頭痛や吐き気に苦しむし、降雪時はあちこちの隙間から雪が舞い込んでくるので顔まですっぽりと防寒具に包み込んで輸送中じっと我慢しているのだ。)
 宮城県のある温泉町の郊外に自衛隊の訓練用宿舎があり、俺達はここで1週間の予定で訓練を行う予定だった。
翌日から早速スキー訓練が開始された。ここでスキー訓練について説明しておこう。訓練はゲレンデを滑り降りる「滑るスキー」ではない。クロスカントリーばりの「走るスキー」だ。山間部をライフルを背負ってひたすら走るのだ。自衛隊員が使用するスキー板はごつい木材でできていて、まず折れることはないが重くて小回りがきかない。ビンディングは皮革でできている。ストックの素材は驚くなかれ「竹」だ。当然によく折れる。
 訓練初日には1周数キロのコースを全員で2列縦隊になってしっかりとしたスキー跡をつくるコースづくりだ。 このコースを30秒程度のタイム間隔でスタートしていくのだ。俺もある程度スキーはしていたほうだが、この「走るスキー」は初めての体験だったので、スタート早々からこけまくり、他の隊員にどんどんぬかれていく始末だった。小銃はあたかも忍者が背中に刀をかつぐように背負うのだが、走るにつれて小銃ががたがた背中で動いて、そのおかげで小銃の小さい突起が背中に当たって背中の皮がむける。(背中で動かないようにきつく締めると胸を圧迫して呼吸が苦しくなるし、緩めると背中がむけるといった具合だ)心得た隊員は小銃の突起部をガーゼ等でくるんでクッションにしていたようだ。
 さて、1日中訓練でへとへとになった隊員達にとって一番の楽しみの時間が夜の点呼から消灯までの時間だ。部隊内の部屋では禁酒だがこうして隊外へでてきたときは別だ!みんなで酒を持ち寄って毎日が宴会だ。女性がいないのでなんとも色気のない宴会だが、人数も多いので毎日一升瓶が何本も空になっていく。
 何日目かの訓練を終えた朝のことだった。訓練宿舎に警察から連絡が入った。夜中に宿舎近くの旅館の客室から現金の入ったカバンが盗まれたというのだ。なぜ我々自衛隊の宿舎に警察が連絡してきたのかというと、その旅館の周辺の雪の上に自衛隊の半長靴(ブーツ)の足跡がもろに残っていたというのだ。通常の長靴と違い自衛隊の半長靴の靴底は他に例がないといっていいくらいに特徴的なのである。
 青くなった中隊長は、早速隊員を招集し、我々幹部に一人ずつ身体検査までして隊員の持ち物を検査するように命じたのである。中隊長としては隊員の中に犯人がいないよう祈る気持ちでいっぱいであったであろう。・・・・・
 風呂の脱衣場を利用して我々幹部数人で隊員を目の前でパンツ一丁になるまで身体検査をして持ち物をすべて検査した。俺自身、隊員の身体検査をしながら非常に情けない思いがしたし、事件に関係がない隊員にとっても憤りを感じていたに違いない。訓練隊舎内には重苦しい雰囲気が充満していたし、中隊長としては一刻も早く事件に決着をつけたかったのだろうが、盗まれたカバンはその日ついに探し出すことはできなかった。 翌日、何事もなかったかのうように俺達は訓練にでかけたが、中隊長をはじめとする上級幹部は隊舎に残り隊員がいなくなった隊舎内を徹底的に捜索したがこれまた何もでてこない。後で聞いたことだが、中隊長には隊員からの情報で、事件の夜に隊舎外に出た可能性のある隊員がつかめていたそうだ。訓練を終了して隊舎に戻ってきたその隊員を呼びつけ詰問したところついに白状したらしい。その隊員はなんと訓練中も盗んできたカバンを背嚢(リュックサック)の中に入れて訓練していたのだ。身体検査の際には多分ベッドのマットレスの下にでも入れておいたのだろうと思う。とにかく中隊長は警察にこのことを報告しその隊員は逮捕された。
 事件はその日の内にマスコミに伝わり夕方のNHKの全国版ニュースにも取り上げられたのを覚えている。翌日、俺達はそそくさと隊舎を後にして原隊への岐路についた。
 とにもかくにもこのスキー訓練は印象の深い出来事であり、また今振り返ってみると俺にとって自衛隊を辞める決心をさせたのもこの事件だったと思う。

それ行け!小隊長! (対空射撃訓練)

EPISODE3(対空射撃訓練)

冬のある日、他の中隊の隊員も引き連れてうちの中隊が主となって対空射撃訓練を行うことになった。射撃場は青森県の六ヶ所村。今でこそ核燃料の再処理工場なんかで有名になっている同村だが、たしか当時六箇所村に入って海に面した射撃場に着くまで湿地帯のような場所を走り、雪もちらついていたせいかひどく寒々しくて人も見かけなかった記憶がある。しかし、今思えばそれは静かな村にどかどかと入ってきてガンガン射撃だけして去っていく無法者(自衛隊)が、少しでも村民を刺激しないようにしようとした隊長の計らいだったのかもしれない。
 ここで対空射撃の要領をかいつまんで説明しておくと、まず使用したのは口径12.7ミリの重機関銃で、砂浜に銃座を土嚢で固定し、この銃座に機関銃を取り付けるのだ。とりつけられた機関銃は上下左右思い通りに動かすことができ、上空のどの方向へも照準が向けられるというわけだ。次に標的だがこれが傑作だった。大きなラジコン飛行機に吹き流しを引っ張らせて、この吹流しに的が描いてあるという具合だ。ここで重要なことは先に述べたとおり銃座からはどの方向へも撃てるようにはなっているが、実際には沖には漁船が結構見えており、当然のことながら漁船のいない区域しか銃口が向かないように工夫する必要がある。そこで銃身を向けることができる左右の限界に長い杭を打って限界にきたら銃身が杭にぶつかるようにしていた。今考えるとかなり大雑把な射撃エリアの規制だ。
 とにかく射撃準備を整えた俺たちはようやく対空射撃をはじめるのだが、これがなかなか当たらない!機関銃弾はリンクでつながれており5発ないし10発に1発の割りで曳航弾(弾の軌跡がわかるようにオレンジ色に光りながら飛ぶ弾)が入っており、曳航弾の軌跡をたよりに射撃方向を修正するのだ。照準は機関銃にくもの巣のような円形の照準器を取り付けて狙うのだが、弾が発射されて的に届くまでに飛行機はかなり移動するから、その移動分を考えて現在見えている的より先のほうへ照準する必要がある。すなわち通常は照準器の中心で照準するところを、くもの巣型の照準器で中央から1つないし2つ外側の照準円のところに的がきた時点で発射するのだ。これがいつもは当然照準器の中央で的をとらえて射撃の訓練をしている隊員にとって、なかなかこつをつかむのがむずかしい。俺も撃たせてもらったが、曳航弾がむなしく吹流しの的の前後を通過してなかなか照準がしぼれなかった。ラジコン飛行機の速さですらあの調子なのだから音速で飛ぶジェット戦闘機を機関銃で打ち落とすのは至難の業であろう。これを行う場合に通常は何丁もの機関銃で弾のカーテンを作りそこへジェット機を通過させるという弾幕方式で落とすといった具合だろう。
 とにかく寒い思いをして青森くんだりまで行った対空射撃は、俺の自衛隊生活の中で結構思い出深い出来事の一つである。
 現在六ヶ所村の射撃場が使用されているのかどうかも不明だが、ああいった対空射撃場は狭い日本ではなかなか作れないだろうと思われる。小銃や機関銃といった小火器は有効射程は数百メートルだが、対空射撃のように最大射角で撃つと数キロは飛んでしまう。日本の内陸部で数キロ四方のエリアを確保するのは非常に困難であろう。従って必然的に対空射撃は海岸から海に向って撃つようになっていたのだろう。(航空自衛隊の対空ミサイルの射撃練習ははるばるアメリカ大陸まで乗り込んで内陸の大平原で行うことを聞いたことがある)

それ行け!小隊長! (残弾処理)

EPISODE2(残弾処理)

年度末(3月末)も間近に迫った土曜日だった思う。副長(副中隊長)と一緒に何人かの隊員を連れて実弾射撃に行って来いとの命令が下った。陸上自衛隊の駐屯地には目立たぬ所に弾薬庫があり、弾薬庫には各種実弾(小銃弾・拳銃弾・重機関銃弾・迫撃砲弾・手榴弾・無反動砲弾等)が格納されている。ちなみ俺がいたのは普通科(歩兵)連隊だったので戦車部隊で使用する戦車砲弾や特科(砲兵)部隊で使用する砲弾は当然のことながら格納していなかった。弾薬も毎年古いほうから使用していくように管理されているが、年度末になるとその年の予定使用量を満たしていないと、実弾射撃がやたら増えるという具合だ。俺たちはこれを「残弾処理」と称していたわけだが、つまりその年の内に使用してしまわなければならない弾を射撃で撃ちまくってくるのだ。
 当時使用していた小銃(ライフル)は64式小銃という代物だった。64は正式装備された年を表している。ここで勘違いしてもらっては困るのだが、昭和64年装備では決してない!驚くなかれ1964年なのである。(最近になってようやく小銃も新しいものが開発されて64式小銃に変わって正式装備となったらしいが、聞くところによるとこの新型小銃がかなり高価で陸上自衛隊全てにいきわたるのはまだ何年もかかるらしい。)とにかく俺のいたころは小銃はこれしかなかった。64ならまだいいほうだ。たしか機関銃は62式機関銃だった。この64式小銃、先端に銃剣を装着でき、もちろん自動装填で単発でも撃てるし、引き金の近くにあるつまみを切り替えると機関銃のように連発でも撃てるというものだ。(切り替えつまみは、安全装置・単発・連発の3つの切り替えができた。それぞれの切り替え部分に頭の文字をとってカタカナで(ア)(タ)(レ)と誰が考えたか気の利いたことが刻印してあった)さてこの小銃、ここまでは聞こえがいいが、とにかく重い!銃剣や弾倉を装着せずに4キロ以上あった。口径は7.62mm(正式装備当時の標準NATO弾、現在は5.56mmが標準となりつつある)と大きく破壊力はあるが20発装填の弾倉一つがこれまた重い。訓練でも一人が弾倉4つくらいまでしかもてなかったと思う。また、水に非常に弱いのがこの銃の特徴だった。戦時中には東南アジア方面など湿気の多い地域での戦闘をいやというほど経験してきた国の銃とは思えないほど水気に弱かった。たとえば雨の日の訓練で一日中外で訓練した翌日の朝には銃は赤錆だらけになっていて、作動部には塗油しないととても実射できる状態ではなくなった。
 小銃の話はこれくらいにして、とにかく副長と俺は隊員15・6名を引っ連れて部隊から数キロ離れた射撃場に向かったわけだ。たしか春のきざしも訪れはじめてぽかぽかと陽気な日だったのを覚えている。俺も着任してから既に何回か来ていた射撃場だったし、副長にいたっては通算100回や200回ではなかったであろう。到着早々、手馴れた指揮で射撃の準備をして的も設置させ、30分もしないうちに射撃の準備が整ったと思う。
 その日はたしか50M射撃だっと思う。自衛隊の小銃の実弾射撃には50Mの射撃の他、100Mや200M、400Mがあったし、縮小した10M射撃なんてのもあったと記憶している。(なにせ10年以上前の記憶をたよりに書いているので、もし誤りがあったら許していただきたい)4・5人ずつで撃っていくのだが、まず1列目が射撃している間は2列目の者は射手のすぐ後ろについていて、射撃姿勢の矯正や弾着からの照準補正を助言したりしていたと思う。残りのものは1列目の射撃終了後2列目の準備が整うまでに1列目が使用した標的を取り替えるといった手順で概ねこのローテーションで射撃していたと思う。
 ここで少し補足しておくと、自衛隊では撃った弾の薬莢は原則としてすべて回収するのが当たり前である。射撃場では寝撃ちやしゃがみ撃ちなんていう姿勢の違いはあるが、基本的には射座で静止しているし、また実弾や空砲を使用する際には小銃の薬莢が飛び出す位置に布製のアタッチメントを取り付け、飛び出す薬莢をうまくキャッチしてくれるというわけだ。しかし、実戦を想定した突撃訓練とかでは空砲をばんばん撃ちながら匍匐前進したりして移動するので当然薬莢もなくす確立が高い。訓練後に全員でだだっぴろい訓練場をはいずりまわって日暮れまで薬莢を探した記憶が数知れずある。
 さて、また横道にそれてしまったが、いよいよ実弾射撃訓練の開始とあいなったわけだが、3列目が近づくにつれどうも副長がそわそわしだした。古参の曹長に目配せしてなにやら手配しているようであるが、おれにはなにがなんだか見当もつかない。そうこうしているうちに3列目の番となったが、前述のとおり射手のうしろには通常次の列のものが一人ずつつくはずなのだが、3列目のある隊員の後ろには曹長ほか数名の隊員が囲むようにして見守っている。その隊員は俺が着任する以前から中隊に所属していたが、俺はまだゆっくりとそいつとまともに話もしたことがなかった。俺はどういうことか副長に聞いてみた。すると帰ってきた答えは「物騒だから・・・」つまりそいつに銃を撃たすこと自体が物騒だということらしい。後で聞くとそいつは多少情緒不安定で感情の抑制がきかないらしい。いきなり訳もなく怒ったり、かとおもえば鬱状態がつづいたりといった具合らしい。で、射撃中に銃口を人に向けかねないというのだ。いやはやなんともなさけない話だが、こういう隊員がすくなからず存在したのは俺自身も身をもって体験しているところだ。
 考えてみるに、俺はこの原因は少なからず自衛隊地方連絡部にあると思う。地方連絡部とは各県の県庁所在地などに、主に隊員の募集を目的として自衛隊が設置している事務所のことである。やはりどこの世界もよく似たもので、他聞にもれずこの地方連絡部にも募集人員のノルマがあると聞いたことがある。自衛隊が人気職種(まだまだ地元に就職口が少なくて他県や都会にでて就職せざるをえない地方では地元にある自衛隊は人気職種なのである)である県の地方連絡部なら何も募集活動をせずとも隊員が集まってくるのだが、都会になるにつれ好き好んで自衛隊に入ろうとする若者などいるはずもなく、当然こういった場所の地方連絡部勤務の隊員は高校などあらゆる所にポスターを配布したり、芸能事務所のスカウトばりに街にでてまさに自衛官スカウトしてくるわけだ。
 これに関して一つ笑い話がある。俺が関東方面で勤務していたころだが。同じ隊の自衛官が日曜日に外出した際にJRのとある駅でこの自衛官スカウトに声をかけられたことがあった。ちなみにこの男、頭はスポーツ刈りで体格もがっしりしたいかにも体育会系の奴であった。地方連絡部の隊員さんは頭数さえそろえばいいわけで、個々の隊員の能力など問題外なのだ。それが前述の射撃場でのように実弾をうかつに持たせられない隊員を生むことになってしまうのだ。なお、余談ではあるがスカウトに声をかけられた俺の友人は、AV男優のスカウトにも声をかけられた事もあった。「にーちゃん!ええ体しとるな。体力ありあまっとるんやろ?」といって声をかけられたそうだ。どうも自衛官募集とAV男優のスカウトは採用時のスカウトマンの視点が似ているようだ。
 まあ、この日は何事もなく無事に残弾処理を終了し、俺たちは部隊へと戻ったのであるが。実弾を扱う訓練における小事故は俺の知っているだけでも数限りない。

それいけ!小隊長!

EPISODE1x

自衛隊の雑用にもいろいろあるが、ここでは一番手間がかかり、しかも自衛隊独特のものとして半長靴の手入れを紹介しておこう。半長靴は隊員全員に貸与されている訓練用のブーツで、皮製で靴底も厚く非常に丈夫なものである。隊員は皆これをまるでピカピカであることが隊内でのステータスででもあるかのように精魂こめて手入れする。俺の例でいえば小学校時代に始めて親から買い与えられたグローブくらいに何度も何度も油を塗りこんで艶をだした覚えがある。中でも皆が争うように磨きこんでいたのはそのつま先の部分である。古参の隊員の半長靴のつま先部分など大理石のようにピカピカで顔が映るくらいに磨きあげてあったものだ。一度そこまでにする秘訣を教えてもらったことがある。貸与品の靴墨をごってりとつま先部分に付け、ライターの炎でその靴墨の表面がこげるくらいに熱した後、冷えるまで待ってからやわらかい布(これも貸与品の薄い靴下を利用していたと思う)で少しずつ小さい円を描くように丹念に磨き、この過程を何度となく繰り返すというものだった。こういった手間のかかる雑用も当然に新隊員にまわっていただろう。以前みたリチャードギア主演の「愛と青春の旅立ち」のワンシーンでギアが新品のブーツやベルトのバックルを部外者から横流ししてもらい、これを同僚の隊員に売るというシーンがあったが、まさにどこの軍隊も同じなんだと思い、思わずニヤリとしたことを思い出した)。

それ行け!小隊長! (だんなの自衛隊奮戦記)

これは俺(だんな)が自衛隊で体験した事実を忠実に書き記したものである。
10年以上の時間が経過しているとはいえ、まだ当時の関係者で現役の自衛官もいるので、名前・場所・時間等詳細に記せない事をお許し願いたい。中には自衛隊に対しかなり痛烈に批判めいたことも書いてはあるが、どうか勘違いしないで欲しい!俺は当時から現在に至るまで自衛隊を愛しているし、今日この時にも祖国を守るために訓練に励んでいる隊員を誇りに思っていることを!

EPISODE1(着任初日)

 10月の初旬、久留米にある陸上自衛隊幹部候補生学校における6ヶ月の課程を終えた俺は、最初の赴任地である東北のとある部隊へ到着した。到着後まず連隊長室に案内された。がちがちに緊張しながらも着隊の挨拶を終えるとすぐさま中隊に連れて行かれて俺の自衛隊生活がスタートした。
 なにはともあれ、隊員の前で中隊長に紹介された後に自分からも挨拶を終えたかと思うと、中隊長から「○○2曹と一緒に○○駅へ行け」という命令が下った。理由を聞くとどうも今朝の点呼時に1名足りなかったらしく・・・要するに深夜の間に塀を乗り越えて脱走したらしいのだ。それで数名ずつのペアを組んで、実家はもちろんのこと最寄の駅や親戚の家や友人の家などに張り込みをしいたのだ。なんとも赴任初日の仕事がこれとは・・・今思うとまさにそれからの自衛隊生活を暗示していた出来事だった。
 着隊した中隊の中隊長はまさに一平卒からのたたき上げで陸上自衛隊のことで知らないことはないと言っても過言ではないくらいの人だった。後で聞いたのだが早朝に脱走が判明してからの中隊長の手際はすばやくしかも適所に手を打ったらしい。(というよりも脱走が日常化していて中隊長もなれていたのが本当だったのかもしれないが・・。)(ちなみにこの中隊長は既に定年となって職を去られているが、当時俺はその人から教わる事が多く、俺にとって神のような存在であった。今思い起こしても実に質実剛健な人で自衛官の鏡であったと思うと同時に人間的にも尊敬できる人であった。今では正月に年賀状を交換しているくらいなものだが、お元気なうちにもう一度お会いできる機会があればと思う)
 話を戻すと、命令をうけて、ちょうど正午頃だったろうか、私服に着替えた俺と○○2曹はようやくJR○○駅に到着した。とりあえず改札口が見えるベンチを陣取り○○2曹と見張ることになったわけだが、今日着任した俺には当の脱走した奴の顔がわかるはずもなく、ただ○○2曹に頼るしかなかったのだ。夕方学校帰りの女子高生達がベンチにボーっと座っている俺たちを不審そうな顔で見ながら通り過ぎていく。さらに会社帰りのおっさん達(今思えば現在の俺くらいだったんだろうなー)が改札を通過していく。それを見ていて俺は朝晩同じ改札をこうやって毎日通過していくそのオヤジたちの人生ってなんなんだろうとふと考えたものだ。そういう人生の単調さがいやで自衛隊に入った俺だったのに、なんの因果か今ではその毎日同じ場所をいったりきたりしているオヤジの一人になってしまっている。
 当時は携帯なんてものはなかったので、ときたま公衆電話から中隊に電話を入れて、みつかったかどうかを確かめていたが、脱走者がみつからないまま夜になって、何度目かの連絡の際にようやくその日の捜索を打ち切るので部隊に帰ってこいという命令をうけた。こうしてなにがなんだかわからないままに俺の着任初日は過ぎた。ま、こうした特殊な日だったからこそ今でもこうして鮮明に覚えているのかもしれないが・・・・。
 脱走者のその後のことを言うと、結局は女友達のところへ逃げ込んでいた。親からの連絡を受け中隊長が本人と会い、とりあえず本人に戻る意思のないことを確認した後、身分証明書等を返納させ、まだ若い隊員のために将来の不利益とならぬよう依願退職の形で退職させた。
 現在もそうだと思うが、入隊した隊員は原則部隊内で寝食しなければならない。個室なんてものじゃなく、2段ベッドが5~6個おいてある大部屋に押し込められる。すると必然的に先輩隊員が雑用(※)やらなにやらで入隊してきたばかりの隊員をこき使うことになるわけだが、先輩隊員といってもものの道理がわかっている年齢ではなく、まだ20歳になるかならぬかの年齢だ。逆らったり目をつけられたりすると新隊員にとっては毎日が地獄絵図の日々となるだろう。訓練が終わってくたくたになって部屋に戻り、今度は部屋でいびられこき使われ、・・まだ高校生くらいの年齢の隊員なら逃げて当然だったのかもしれない。どの部屋にも古参の軍曹(1曹か2曹)がいたが、新隊員の躾に対しては陸士長クラスの厳しい教育?を見てみぬ振りをしていたようだ。

またまた!やってくれました!!

北朝鮮さんがまたまたやってくれました!横田めぐみさんの遺骨と称して彼らが日本に渡したものがDNA鑑定の結果、なんと赤の他人の骨と判明!
ほんと信用ならん国だが、これではっきりと日本の国民も北朝鮮がどういう国なのか自覚できたのではと、横田さんのご両親もおっしゃっていた。
まさに、言いえて妙!
隣人がどうしようもないほど嘘つきで、やる事なす事信用できなくなったらあなたならどうします?付き合いやめますよね・・
日本も今年度のこのあとの食糧支援を先送りするようなことを言っていたが、なまぬるい!!
ポーカーゲームで言えば、北朝鮮は賭ける金がなくて、必死で日本の顔色を伺いながらこちらの手が弱い時だけを狙ってきているのに、なぜ圧倒的に優位にたっている日本が北朝鮮の顔色をうかがわなければならいの???
日本の政治家達にもっとポーカーを勉強してもらいたい。
ポーカーフェースとはよく言ったもので、こちらが何を考えているか相手に悟らせない。そして最後にこちらの切り札をどーんと出してより相手へのダメージ効果を上げる。どっちが優位なのかをいい加減北朝鮮にはっきりと分からせてやる時期じゃないでしょうか?小泉さん?
もういい加減国民もうんざりしてますよ・・日本の間抜け外交に・・・

THE GREAT ESCAPE 2

先日外務省が訪朝し、横田めぐみさんの写真を数枚持ち帰った。まだまだ写真にはいろいろと疑惑があるようだが、各成長過程でのめぐみさんが映されており、親御さんにとってはさぞかし辛く切ない思いで見られたに違いない。北朝鮮がこれまで報告してきためぐみさんに関する情報は二転三転し、なにが事実なのかは当局も実際のところわからないのではないのかと疑わざるをえないほどだ。 そんな中、蓮池さんの口からめぐみさんが過去に脱走を試みていたことが語られた。だんなはこれを読んだ時、めぐみさんの意思の強さと行動力に感服した・・・。絶対に故国に帰るんだという強固な意志を感じ、そしてまた、連れ戻されたときのあまりにも深い絶望感を想像せずにはいられなかった。 ここ数日で北朝鮮ではあきらかになんらかの政策転換が行われているようだ。金正日の写真撤去やバッチ着用をやめたことから、報道では外交的に懐柔策をとりつつあるということだが、だんなとしては希望的ながら現・金正日体制の崩壊まじかと見たい・・・。前述のように国家としての見解が二転三転する国の発表なのだから話半分に聞くのが妥当だ。そしてめぐみさんの死亡発表も事実確認せずでの発表と期待したい。

領海?了解?

ひさびさの書き込みになってしまった・・・
今日、国籍不明の潜水艦が沖縄方面の海に現れたようだ。自衛隊はP3C(対潜哨戒機)を投入して探索を継続したらしいが、当にどこの船かは判明していると思う。
 だんなが思うに、あれは中国船籍に違いない。
 これは、来日している中国人留学生と飲んだときの話だが、中国では一定年齢に達すると当然のごとく徴兵義務が課せられる。その留学生は軍隊にいた当時海軍に所属し潜水艦に乗っていたそうで、当時の話を色々語って聞かせてくれた。その中でだんなが一番印象に残っているのは、彼の乗船した潜水艦がなんと東京湾の海底まできて、数日間を東京湾の底ですごし情報を収集していったそうなのだ。
だんなはこれを聞いたときはある種のショックを受けた。日本がスパイ天国なのは十分分かっていたつもりだが、海の底・・・それも首都の目の前まできているとは驚かされた。
 中国は尖閣列島の例でも分かるように、知らぬ間にずかずかと人の土地に入ってきて隙あらばそこの利益を根こそぎ自分の物とする・・・これはまさに華僑の思想なのかもしれないが、人の土地であろうが落ちている利益を拾って何が悪いといったところなのだろう。
 日本人は隣にこういう考え方の人種がいるということをもっと理解していなければならないと思う。庭になった柿を近所のガキどもがとっていくのとはわけが違うのだ。彼らは柿の木ごと持って行ってしまうのだ・・・

脱出!ESCAPE!

 リタイヤした日本人夫婦が、物価が安く、天候も穏やかな海外へ移住して老後の人生を送る・・・よく聞く話しだしだんなも、子供達が巣立って夫婦だけになった時、できればそうしたいと思っている。きっと現在既にリタイヤした方達で日本に住んでいる人の中にも、家族や親戚といったしがらみがなければ海外で暮らしたい.
といった、潜在的移住希望者はもっといると思う。
 ところで、先日も北京の日本人学校へ北朝鮮からの脱北者が集団で亡命した。彼らが脱北するのは、もはや国家として正常に機能していない北朝鮮では、国民の日々の食料すらいき届かない現状だからだ。
 ここで考えてもらいたい!最初に述べたとおり、最近の日本人は日本を住みよくないと大半が思っている。それでリタイヤした後くらいはのんびりと海外でと思うとだろう・・多少事情が違えど、これも一種の亡命だと思う。
北朝鮮の場合は、外の情勢もほとんど入ってこない状態で、決死の覚悟で外を目指す、言わば約束の地を夢見て新大陸へ移住していった欧州人のようなもので、食えない状況を打開するために泣く泣く祖国を後にする亡命者だ。ひきかえ移住を考える日本人は世界の状況を見極めた上で、冷静に今の日本を住むのに適した状況ではないと判断して祖国を見捨てる亡命者なのだ。脱北のニュースを見て、北朝鮮のことを可愛そうだと考えている日本人がほとんどだろう。でも気づいてほしい!
 日本も世界からみれば国民が祖国を見捨てて脱出している可愛そうな国だということを!